roombaの日記

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『明暗』『宇治拾遺物語』『ガルガンチュア』ほか-2015年12月に読んだ本まとめ

はじめに

2015年12月に読んだ28冊です。2015年のランキングを記事にしただけで満足し、12月に読んだ全冊のまとめを忘れるところでした。
夏目漱石の長編のなかで唯一未読だった『明暗』がベストです。
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以下では今月読んだ本を「文学(海外)」「文学(国内)」「理系っぽい本」「エッセイ・その他」の4つに分類しました。

各本について、タイトル・リンク・読書メーターに書いた感想(一部追加・修正あり・非ですます調)の順に記します。気に入った文の引用も。↓↓↓

12月に読んだ本(タイトル一覧)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)
■ヘルマンとドロテーア (岩波文庫)
■バッハの音符たち―池辺晋一郎の「新バッハ考」
■文鳥・夢十夜 (新潮文庫)
タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)
旅をする木 (文春文庫)
■明暗 (新潮文庫)
■これはペンです (新潮文庫)
■出家物語
■羊男のクリスマス (講談社文庫)
■トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)
■サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3
漱石とグールド―8人の「草枕」協奏曲
日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集08)
量子コンピュータとは何か (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)
■ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)
クリスマス・キャロル (新潮文庫)
百人一首(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 日本の古典)
カンディード (光文社古典新訳文庫)
■霓博士の廃頽
■歌行燈・高野聖 (新潮文庫)
■葉桜と魔笛
■誕生日の子どもたち (文春文庫)
中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河 (岩波文庫)
死の家の記録 (新潮文庫)
■人間・この劇的なるもの (新潮文庫)
サロメ (岩波文庫)
黄金比はすべてを美しくするか?―最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語  (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)


以下詳細↓

文学(海外)

■ヘルマンとドロテーア (岩波文庫)

ヘルマンとドロテーア (岩波文庫)

ヘルマンとドロテーア (岩波文庫)

ゲーテの母と本人の両者が気に入っていた作品で、古い時代の英雄叙事詩とは世界を異にする「市民的叙事詩」だそうだ。田舎の好青年ヘルマンが、フランス革命の動乱に見舞われて避難中のドロテーアに求婚する。ちょっと内気だけれど堅実で見どころのあるヘルマン、息子を信じてあたたかく支える母、苦難を前にしても毅然としたドロテーアといった人々が魅力的で、読み終えた後にはめでたしめでたしといった気分に。ストーリーはシンプルだが、短くまとまっていて気持ちの良い作品だと感じた。古い本だけど翻訳も問題なく、読みやすい。

「動揺の時代に己が心までもぐらつかせる者は、自分の禍を増すのみか、世間に禍を拡げてゆく。それにひきかえ、志を堅固に保つ者は、世界をわが用に造るのだ」


タイタンの妖女 (ハヤカワ文庫SF)

突飛なSF的設定のなかで繰り広げられる、半ば滑稽な物語。それなのに(あるいは、だからこそ?)、人間のあり方や人生の意味といったような根源的なものを考えさせられる小説だ。大きな力に翻弄され続けた主人公マラカイ・コンスタントが、晩年になってビアトリスとともにある結論を導き出す。宇宙規模の放浪の果てのとっても小さな結論に、結局のところそれに尽きるんだなぁと思った。なんだか神話の類を読んだみたいな気分もするし、ところどころユーモアも効いていて面白かった。

「おまけにこの哀れな生物たちは、存在するものすべてなんらかの目的を持たねばならず、またある種の目的はほかの目的よりもっと高尚だという観念にとりつかれていた」


「人生の目的は、どこのだれがそれを操っているにしろ、手近にいて愛されるのを待っているだれかを愛することだ」

コンスタントが使った偽名「ジョーナ」は旧約聖書「ヨナ書」のヨナのことだ、と訳注に書いていた。読み終えてからWikipediaでヨナ書の項をのぞいてみたところ、コンスタントの境涯に微妙に似ているような…?〈くじら号〉という宇宙船も出てくるし(結局それに乗ったのか忘れたけど)。

■トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)

トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)

トオマス・マン短篇集 (岩波文庫 赤 433-4)

短い作品17作。マンの文章にはいつも独特の力を感じる。複数の作品において、有名な『トニオ・クレエゲル』のように実生活との折り合いに難儀する芸術家気質の人物をみることができる。また、特に前半の作品に顕著だが、未来や異性への不安に満ちた憧憬、予感、希望、あるいは幸福への意志のようなものを胸に抱く主人公が多く登場する。それらの希望を抱いているうちは良いのだけれど、一旦充足されたり、逆に満たされ得ないという現実に直面したとき、彼らは幻滅したり生きる口実を失ったりしてしまうことになるのである。

「どうとでも君の思い通りに存在し、思い通りに生活するがいい。ただし必ず大胆な自信を示して、やましい良心なんぞ見せぬことだ。そうすれば誰だって、君を軽蔑するほど道義的ではないだろう。ところが、君自身との一致を欠いて、自己満足を失うような目に逢って見給え。君が君自身を軽蔑していることを表わして見給え。そうなると、世間は盲滅法に君をもっともだとしてしまうだろう。 (『道化者』)」


「単純に衝動的に潑刺たる人々、つまり、精神と芸術とによる浄化も、言語による解脱も知らぬ啞の人生 ーー に寄せている僕の憧憬は、まず第一に迷誤なのではなかろうか。ああ、僕等安息もなく悩んでいる意志によって造られた者たちは、残らず同胞なのだ。そのくせ、僕等はお互いにお互いがわからない。なにかもっと別の愛が必要だ。なにかもっと別のが。 ー (『飢えた人々』) 」


■ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫)

500年近く前の作品。いきなり「世にも名高いよっぱらいのみなさま」との呼びかけから始まり、生まれてすぐ「のみたいよー」と叫んだガルガンチュアによる最高の尻ふき方法、おしっこ洪水、十字架型の棍棒で敵を殺しまくる修道士のジャンなど、思いっきり自由なストーリーが畳み掛けてくる。下品なガルガンチュアも教育によってまともになり、戦いの勃発以降は父の良識も目立つ。破天荒な物語にパロディや諷刺が詰め込まれているようだ。要約は難しいがとにかく笑えて楽しい話で、面白くないとでもいう奴は、脱肛にでもなってしまえばいいのだ!


クリスマス・キャロル (新潮文庫)

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

クリスマス・キャロル (新潮文庫)

有名なのに読んだことがなかった作品。シンプルながらとてもあたたかい話だった。心の冷え切った孤独な老人スクルージが、幽霊に連れられて過去・現在・未来を旅し、頑固な彼も悔悟の涙を流す。心を入れかえていわば人生に蘇ったスクルージは、たとえ一部の人々に笑われようとも、眼元にしわをよせながら慈愛に満ちた行いをするようになったとさ。めでたしめでたし。ちょっと早いけど、クリスマスおめでとう!という感じ。せっかくなので英語でも読もうかな。


カンディード (光文社古典新訳文庫)

カンディード (光文社古典新訳文庫)

カンディード (光文社古典新訳文庫)

カンディードはパングロス先生から教わった「すべてが最善である」という説を信じていたが、各地で次々と惨状を目にし、疑念を抱くようになる。そして有名な最後の台詞へ。出来事の悲惨さの割に淡々と進行するため、すごく感動するようなものではないが、物語を通していいたかったことは良く伝わるといった感じ。

ところで、ドストエフスキーは「生涯にわたるプラン」というメモに「ロシアのカンディードを書くこと」と記していたらしい。『カラマーゾフの兄弟』ではコーリャ少年が『カンディード』を読んだと言っているし、アリョーシャは自信無さげに「ヴォルテールは神を信じていたんじゃないかな。ただ、その信仰は浅かったようですがね、それで、人類を愛することも浅かったように思えるんだけど」と答えている。また、イワンは「もし神がいないとすれば、それを考え出す必要がある」というヴォルテールの言葉を引用している。
『謎解き『カラマーゾフの兄弟』』(江川卓)によると、ドストエフスキーは『カンディード』をその本質において捉え、最善説に対する痛烈な反駁と皮肉をイワンの口を通して行ったそうだ(イワンは幼児虐待を例に挙げ、そんな「調和」なら入場券を返上すると言っている)。さらに批判だけにはとどまらず、ユートピアの積極的な絵図としてゾシマ長老の談話を提示したとのこと。


■誕生日の子どもたち (文春文庫)

誕生日の子どもたち (文春文庫)

誕生日の子どもたち (文春文庫)

クリスマスの2編を含む6編の短篇。いずれもイノセンスをテーマに書かれた作品であることは聞き覚えがあり、ただただ素直に美しい幼少期の思い出を描いたものかと予想していたが、それだけではなかった。もちろんバディーとスックがケーキを焼いたりといった楽しい場面も多いけれど、無垢な美しさは同時に脆さを伴うし、死の気配や残酷さ・暗い屈折を感じる作品も複数ある。カポーティの少年時代について村上春樹の訳者あとがきで知り、なんとなく納得。切ないね…。『無頭の鷹』はちょっと村上春樹っぽいと思った。


死の家の記録 (新潮文庫)

死の家の記録 (新潮文庫)

死の家の記録 (新潮文庫)

普通の小説とは異なり、監獄という特殊な環境下における見聞の記録である。それでもグイグイ引き込まれるのは、囚人たちの性格や心情に対する鋭い洞察によるのだろう。後の作品にみられる人物の原型みたいな人も複数いる。囚人とはいえ必ずしも極悪人ではなく、芝居のあとには賢人にない民衆の価値を見出すことも。精神的な孤独におかれて自分の過去をきびしく裁き、民衆との端的な接触を経験し、復活・更生・新生活に対するはげしい渇望から強靭な力を得た主人公(≒ドストエフスキー)には心を打たれた。他の作品を読むうえでも参考になりそうだ。

「何かの目的がなく、そしてその目的を目ざす意欲がなくては、人間は生きていられるものではない。目的と希望を失えば、人間はさびしさのあまりけだものと化してしまうことが珍しくない……わたしたち囚人全体の目的は自由であった、監獄から解放されることであった」


「この孤独がなかったら、自分に対するこの裁きも、過去の生活のこのきびしい反省も、ありえなかったことであろう。そしてそのころわたしの心はどれほどの希望にみちみちていたことか!」


サロメ (岩波文庫)

サロメ (岩波文庫)

サロメ (岩波文庫)

妖しい美女には月の光がよく似合う。鮮烈な印象を残す悲劇だった。漂う不吉な予感、美しいサロメの見事な踊り、王に要求された踊りの褒美。領土よりもエメラルドよりも銀の大皿にのせた首が欲しい、と要求したサロメはただただ残虐な悪女なのかと思いきや……。狂おしくも純粋なサロメの一途な思いに、血の流れるむごたらしい光景とは対照的な、切ない悲しさ・透明な冷たい美を感じた。ビアズレーの独特な挿絵は雰囲気がぴったりで、福田恆存の翻訳も格調高い。ちょっと違うけれど、サロメから夜長姫(『夜長姫と耳男』)を連想した。


文学(国内)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

回転木馬のデッド・ヒート (講談社文庫)

「はじめに」によれば、正確な意味での小説ではなく、事実に即した文章ということになっている。この前書きも含めフィクションなのかなという気はする(実際どうなのかは知らない)。人生経験の浅さゆえか、正直何がいいたいのかさっぱり分からない作品も複数あった(『雨やどり』など)けれど、『タクシーに乗った男』と『ハンティング・ナイフ』はなんとなく面白いと思った。全体的に、ひとの話に耳を傾けながら「そういうこともあるのかぁ」と思うときのような感覚。


■文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

むかし青空文庫で読んだ時はあまり印象に残らなかった『夢十夜』が、今回とても好きになった。特に気に入ったのは、ロマンチックな第一夜、ヒヤッとする第三夜、「埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」という言葉を覚えていた(どこで読んだっけ?と思ってた)第六夜、ちょっと意味深な第七夜。その他、『文鳥』で回想する女の艶めかしさや『思い出す事など』で「一度死んだ」後に考えたことを面白く読んだ。死刑宣告を受けたドストエフスキーのことを考えたのか…。死刑を免れたドストの咄嗟の表情がどうしても浮かばなかったらしい。

「もし空谷子が初対面の人で、初対面の最先からこんな話をしかけたら、自分は空谷子を以て、或は脳の組織に異状のある論客と認めたかも知れない」
「よくあの字が活版に変形する資格があると思う」

……ナチュラルにひどいこと言うから笑える。

「仰向に寝た余は、天井を見詰めながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住み悪いとのみ観じた世界に忽ち暖かな風が吹いた」


「余は黙ってこの空を見詰めるのを日課の様にした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけて悉く余の心に映じた。そうして余の心に何事もなかった、又何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、縹渺とでも形容して可い気分であった」


■明暗 (新潮文庫)

明暗 (新潮文庫)

明暗 (新潮文庫)

漱石の他の作品と比べても特に濃密で、もう読むのが止まらなかった。自尊心が高めで世間体を気にする津田・その津田に愛されようと必死な妻のお延・失うものがなく津田に恐れられる小林などなど、個性的な人物が揃っている。彼らの行動原理がそれぞれ異なるために衝突が生まれ、饒舌な人物たちのぶつかり合う会話シーンが繰り広げられることになる。際立った個性と思想で楽しませてくれた小林(ドストエフスキーの影響があるらしい)には「サンクス」といいたい。漱石の変化を感じる大作だったが、99年前のこの日、未完のまま亡くなった。残念。
なお、「注解」が先の展開をやたらと教えてくるので注意されたし。

露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賤であろうとも、又如何に無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってる筈だ。君はあれを虚偽と思うか」


「だからやっぱり君に対してサンクスだ」


■これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

これはペンです (新潮文庫)

ボルヘスっぽい。表題作は、解説の「すぐれた小説はかならず小説論なのだ」という言葉が似合う作品。もう一つの『良い夜を持っている』の方が個人的には好きで、記憶の人フネス(byボルヘス)を多方面に押しひろげたような内容だった。超記憶を持つ「父」は圧倒的な記憶力によって逆に多くの困難を経験する。彼においては胡蝶の夢どころの騒ぎではなく、夢1・夢2・…の中を彷徨うことになる。その他ピエール・メナールの『ドン・キホーテ』やアキレスの亀といったボルヘス的話題もチラッとでてくるし、全体的に理系っぽい面白さがあった。
「一番最初の計算機が、エミュレートを行い続けた果ての果て、自分の中に構築された計算の枝の末端の計算機たちにより、並列的にエミュレートされているような状態」みたいな話は好きだ。

■出家物語

出家物語

出家物語

円城塔の小説に引用されていて存在を知った短篇。『出家物語』という題名からはとても想像できない俗っぽい話に始まり、戦時中に犬やドブ鼠の入ったオデン屋でボロ儲けする男や、スラリとしていながらとんでもなく助平な未亡人が登場する。不純異性交遊的な話が延々と続いた後の展開には呆気にとられるかもしれないが、同じ安吾の『勉強記』を読んだことがあれば腑に落ちる。『勉強記』では、不惑という年頃まで女のことしか考えない言語道断な助平達が印度の哲人となる話に触れており、女性に心動かされた主人公も悟りを当面あきらめているのだ。

「野郎ボンヤリしやがって、たゞもうむやみにボリゃ、もうかるんだからね、霞ヶ浦のワカサギだって、こんなに釣れやしないわヨ。カミサン子供の焼死なんざ、ボロもうけの夢心持のマンナカにはさまったサンドイッチみたいなものさ」


「ビヤダル型のオジサンはめったに怒らぬものであるが、いざ怒ると、汗が流れて、湯気が立つ、ユデタコのようにいきりたって壮観である 」

文章に勢いがある。


■羊男のクリスマス (講談社文庫)

羊男のクリスマス (講談社文庫)

羊男のクリスマス (講談社文庫)

短篇というか絵本というか、村上春樹のこういう感じの本はたぶん初めて読んだけれど、なかなかほっこりとした気持ちにしてもらえた。物語の雰囲気とぴったり合っている佐々木マキさんの絵も良かった。特に羊男がかわいい。あと、ドーナツが食べたくなった。


■霓博士の廃頽

『風博士』的なファルス? 霓博士が「僕」の鼻をグリグリぐりぐり捩じ廻してきたり、邸宅の窓が爆発して飛び出してきたり、バアテンダアがカクテル・シェーカアの中に入って廻転し始めたり、とにかく意味不明過ぎて笑った。

「実に怪しげな奴ぢやアよ! 憎むべき存在ぢやわい、坂口アンゴウといふ奴は! 万端思ひ合はせるところ、かの地底を彷徨ふ蒼白き妖精、小妖精の化身であらうか。はてさて悩ましき化け物ぢやアよ!」


「突然ブルン!と空気が破けて頭の上へ卓子が飛んできた!右から椅子が落ちてきた!左から靴だ!本だ!バケツだ!電燈が微塵にわれた!黒板が――僕としては幸福なめぐりあわせであつたのだが黒板は幾らか重すぎるために、博士は遂ひに自ら黒板の下敷きとなり泡を激しく吹き乍らジタバタして、「タ、助けないと、アンゴウは、ラ、ラ、ラ、落々々々……ぢやアよ!」と唸つてゐるドサクサに僕は窓を蹴破つて一目散に逃げ延びるのであつた 。 ――およそ此の如き有様が毎日の習慣であつたのだ」


■歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

幻想的な『高野聖』が特に良かった。ぬらぬらとした蛇を跨いだり、大きな山蛭がぼたりぼたりと降りかかってくる森を通り抜けた先にいたのは、谷川の側に住む妖艶な女。月の光に照らされた女の姿の描写や、体を女の手で洗ってもらうときの「結構な薫のする暖い花の中へ柔かに包まれて」といった表現が印象に残る。「いささ小川の水になりとも、何処ぞで白桃の花が流れるのをご覧になったら、私の体が谷川に沈んで、ちぎれちぎれになったことと思え」。鏡花の文章は美しいけれど、油断したら何が何やら分からなくなるので時間がかかった。


■葉桜と魔笛

葉桜と魔笛

葉桜と魔笛

立ち読みした雑誌"BRUTUS"の「夢中の小説」で誰か(誰だっけ…)が強くオススメしていた作品。とても短い短篇だけど、確かにこれは良い! ぐっときた。青春に対する妹の切ない憧憬と後悔、そして予想もしなかった意外な展開。かつて咲き誇った桜が花びらを落として葉桜となる、そんな季節のイメージが浮かんできた。また葉桜の頃にでも再読したい。


日本霊異記/今昔物語/宇治拾遺物語/発心集 (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集08)

町田康訳の『宇治拾遺物語』のみ。なんとなく手にとってみたら滅茶苦茶にぶっ飛んだ話が多くて一気に読んでしまった。下ネタ全開の小噺には何度も笑ったし、他にも芥川の『鼻』『芋粥』の原話や、こぶとり爺さん・わらしべ長者として知られているものもある。町田康の現代語訳もかなり好き放題な感じで、この説話集のおもしろさを現代風に引き立ててくれていると思う。特に笑えたのが『奇怪な鬼に瘤を除去される』『中納言師時が僧侶の陰茎と陰嚢を検査した話』『滝口道則が術を習った話』あたり。こんなに自由な説話集だったなんて…

「その、あまりのおもしろさ、味わい深さに、初めのうちは呆気にとられていた鬼であったが、次第にお爺さんの没我入神の芸に引き込まれ、踊りまくったお爺さんがフィニッシュのポーズを決めて一礼したとき、全員が立ち上がって手を拍ち、ブラボウを叫んだ。 (『奇怪な鬼に瘤を除去される』)」

こちら↓に一つ公開されています。
河出書房新社 — 町田康訳「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より)



百人一首(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 日本の古典)

一首あたり2-4ページ程度の解説を収めた本。最初はカルタのために丸暗記することから始め、年を経るごとにじわじわと分かるようになってきた百人一首。知らなかった文脈や見落としていた掛言葉・勘違いしていた言葉などがいくつもあり、まだまだ理解不足だったことが明らかに。「鵲の渡せる橋」が天の川に架けられる橋のことだったとは知らなかったし、思っていたより恋の歌が多かった。そしてなにより、自然と心情の二重の文脈が交錯する和歌の仕組みについて考えるきっかけになった。
和歌で何らかの心情を伝えようにも、五七五七七という制約のもとではいちいち小説のように説明する訳にもいかないので、人々が共有する自然・景物への豊富なイメージに仮託するという手法が有効となってくる。それを実現するのが掛詞と序詞であり、構造的に言って、自然と心情を直列に(縦に)並べるのが序詞、並列に(横に)並べるのが掛詞であるということができる。これらを駆使することによって、自然の景物と人間の心情という二重の文脈を帯びた歌を構成することができる。
『レトリック感覚』の著者である佐藤信夫は、Xを「Yのよう」という直喩で表現したときに、逆にXからYのイメージを作る(!)という言語行為の存在を指摘している。例えば、轡虫の声を知らない人が「轡虫の鳴くような調子でこういうのは…」という文章から逆に轡虫の声をイメージするといった具合に。…和歌においてもたぶん似たような双方向性が言えて、人間の心情という概念的なものを自然の景物によって視覚化するだけでなく、逆に自然の景物の方にも心情的な意味を付与することになるのである(例: 有明の月)。
したがって幾つかの和歌を覚えておくことで我々は「意味を与えられた自然」を味わえるようになるのだし、このような自然の意味付けの総体は、自然の文化的な取り込みとでもいうべきものになるのではないだろうか?

理系っぽい本

量子コンピュータとは何か (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

量子コンピュータとは何か (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

量子コンピュータとは何か (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

サイエンスライターによる本なので、比喩を用いて分かりやすく説明されている。なんとなくな理解にとどまるものの、本格的に学ぼうとすると難し過ぎるのでこれぐらいが丁度良いように思う。普通のビットならぬ「量子ビット」を用い、ミクロな世界の奇妙な性質を使って並列的な処理を行う量子コンピュータ。その基礎や公開鍵暗号の破り方、さらには絶対堅牢な「量子暗号」についてザックリと学ぶことができた。量子セル・オートマトンという言葉にはテンションが高まる。最近のニュースによると512量子ビットまで扱うようになっているらしい。


黄金比はすべてを美しくするか?―最も謎めいた「比率」をめぐる数学物語  (ハヤカワ文庫NF―数理を愉しむシリーズ)

タイトルにはあまり惹かれなくて、黄金比の数秘術的な拡大解釈をたしなめるだけかと思っていたが、立ち読みしたら面白そうだったので。ピラミッドやモンドリアンの絵に黄金比が隠れているという俗説を批判的に検討するだけでなく、黄金比の多様な性質も良くまとまっているし、絵画や音楽・詩に対する著者(宇宙物理学者)の知識にも驚かされる。フィボナッチ数や星型☆と黄金比の関係は有名だが、ハヤブサの軌道・準結晶フラクタル樹木などとの関係は初耳。ベンフォードの法則には驚いた。最後には「神は数学者か?」という問題まで広がる濃い本。

「さまざまな美術作品や楽曲や詩のなかに(本物や偽物の)黄金比を見つけ出そうとするのは、結局、理想の美の規範が存在し、それは実際の作品によって説明できるという思いこみがあるからだ。しかし歴史は、不朽の価値をもつ作品を生み出した芸術家が、そうした形式的なルールから脱却した人でもあることを明らかにしている。黄金比が数学、科学、自然現象といった多くの領域で重要な存在だとしても、私としては、人間の形に対しても、芸術の試金石としても、それを美観の絶対的基準とするのはやめるべきだと思うのである」

エッセイ・その他

■バッハの音符たち―池辺晋一郎の「新バッハ考」

バッハの音符たち―池辺晋一郎の「新バッハ考」

バッハの音符たち―池辺晋一郎の「新バッハ考」

バッハの楽譜について考察するエッセイ。もともとは雑誌の連載ということで、あまり音楽に詳しくない自分にも気楽に読めた。軽い語り口からギャグも連発…。内容に関しては、例えば「インヴェンション」の1番があんなに少数のモチーフで埋め尽くされたものだったとは知らなかったし、「音楽の捧げ物」はなかなか変態的なつくりになっていたし、他の様々な曲についても美しさの正体みたいなものを徐々に理解することができた。譜例も載っているけれど、知らない曲はYouTubeに助けてもらった。音楽の理論をもっと学びたくなる本。


旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

壮大な大地にひとりで向き合うときの清々しい孤独と、厳しい自然のもとで生活を営む人々のあたたかさとを両方感じることができるエッセイ。生と死が隣り合わせのアラスカに暮らす著者の目線がとにかくやさしくて、読んでいると心が穏やかになってくるのを感じる。東京で慌しくしているこの瞬間にも、アラスカの海ではクジラが飛び上がっているのかもしれないのだ。池澤夏樹氏の解説も良かった。

「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろ。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」
「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いややっぱり言葉で伝えたらいいのかな」
「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって……その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」


■サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

相変わらずスルスル頭に入ってくるエッセイ。村上ラヂオ1,2がどうだったか忘れたけど、少なくともこれは気楽に読める内容のものが多く、何度もクスリと笑わされた。古い服を旅行に持参して旅先で捨てるというのはやってみよう。「今週の村上」は1行なのに妙に記憶に残って困る。「高田馬場」が「裸のババア」に聞こえる、とか…。どこかで聞いたような内容があったのは『村上さんのところ』を既に読んでいたからかな?


漱石とグールド―8人の「草枕」協奏曲

漱石とグールド―8人の「草枕」協奏曲

漱石とグールド―8人の「草枕」協奏曲

ピアニストのグールドはマンの『魔の山』とともに『草枕』を愛読し、亡くなったときのベッド脇には聖書と『草枕』があったという。自ら短く編集してラジオで朗読もしたし、従姉には電話で二晩かけて全編を朗読した(!)。その辺りのことは本書の編者が書いた『「草枕」変奏曲』にも書いてあるので、そちらだけ読めば十分な気もする。本書は8人によるものだが、文芸評論的な文章はどうも苦手だ…。英訳者アラン・ターニーの文が一番参考になったかな。あとは、ゴルトベルクの旧盤ではアリアから順に録音を始めたのでないというのは意外に感じた。


中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河 (岩波文庫)

中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河 (岩波文庫)

中谷宇吉郎紀行集 アラスカの氷河 (岩波文庫)

雪の研究で有名な中谷宇吉郎博士が、研究で訪れた満州やアラスカ・マウナケア山グリーンランドなどを描いた紀行集。満州ツンドラの清潔な美しさに心を打たれ、マウナ・ケア山の溶岩洞に垂れるつららの妖しい色彩には生きた地球の姿を見出し、グリーンランドの「白い月の世界」の白夜を見上げれば青磁色と薄桃色の溶け合う空が広がっている。溶岩の色から備前焼の徳利を連想して酸化鉄の性質まで考えるあたり、さすがは芸術にも科学にも造詣の深い中谷先生である。知識と感性の融合した一冊。

「二万フィートの深海の底、永遠の暗黒の世界の中で、千年間かかって、厚さ一ミリの泥がつもっていく。そういう姿をえがくことも、科学の一つの面である」


「実験がすっかり終ったら、この氷は要らなくなる。そしたら、この鎌倉時代の氷で、カクテルをつくって、悪友諸兄に御馳走しようかと思っている」


■人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

人間・この劇的なるもの (新潮文庫)

私たちが真に求めているのは自由ではなく、必然性のなかで一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。…みたいな一節を見かけ、読まねばと思った。『行人』の一郎が「自分のしている事が、自分の目的になっていないほど苦しい事はない」と言っていたことを思い出す。個人の全体性を回復するために意識的に部分としての自己を味わいつくすこと、そこに自我の確立がある。自由の名のもとに逃避を正当化してはいけない。孤独であることによって自分を甘やかしているだけだは駄目だ。ハムレットを中心に語る、若者向けの人間論。

「私たちが真に求めているものは自由ではない。私たちが欲するのは、事が起るべくして起っているということだ。そして、そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感だ。(中略)生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ」


「未知の暗黒にとりかこまれていればこそ、自我は枠をもち、確立しうるのだ。その枠のないところでは、自我は茫漠として解体する。私のいう演戯とは、絶対的なものに迫って、自我の枠を見いだすことだ。自我に行きつくための運動の振幅が演戯を形成する。なんとかして絶対的なものを見いだそうとすること、それが演戯なのだ」


「個人は、全体を、それが自己を滅ぼすものであるがゆえに認めなければならない。それが劇というものだ。そして、それが人間の生きかたなのである。人間はつねにそういうふうに生きてきたし、今後もそういうふうに生きつづけるであろう」

おわりに

今月の個人的ランキングは、

といったところです。


先月分はこちら↓
roomba.hatenablog.com

2015年のまとめはこちら↓
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