roombaの日記

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小説や科学者の言葉から「教養」とは何かを考える

はじめに

「教養」ってなんだろう? ということをときどき考えます。たぶん知識量だけではなく未知の事柄に向かう姿勢も含んでいるのだろうとは思うのですが、うまく言葉にできない。そんなわけもあり、読書中に教養に関する文章を見つけるとメモを蓄えてきました。ここではそれを放出し、自分なりにまとめてみます。太宰治アインシュタイン村上春樹湯川秀樹・養老孟史らが登場します。

最近理系っぽい記事が多かったので、頭のバランスをとる意図もあったりします。


覚えることがすべてではない

大事なのはカルチベートされること??

教養について考えるとき真っ先に思い浮かぶのが、太宰治の『正義と微笑』(新潮文庫の『パンドラの匣』に掲載)という小説の一節です。主人公(学生)の回想する、「黒田先生」の別れ際の言葉です。この記事は読まなくても以下の引用だけは読んでほしいです。

もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることでなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、必ずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。


『正義と微笑』 太宰治

(カルチュア(culture)というと「文化」という和訳を思い浮かべがちですが、教養という意味もあるようです。また、カルチベート(cultivate)は「耕す」といったイメージでしょうか。"cult"の部分が共通していますね。)

「黒田先生」、いいですね*1。ここは何度も読み返しています。
大事なのは、(必ずしも役に立つとは限らない)勉強の過程において「カルチベート」され、心を広く持つ、つまり愛するということを知ることであるというのです。私がいきなり「教養とは愛するということを知ることだ」などと書いたらなにクサいこと言ってんだコイツと思われそうですが、太宰の登場人物ともなればフームなるほどと思わされます。

「こんなこと勉強して何の役に立つの? つまんね」などと思うのではなく、「なにそれ面白そう」と感じる心が大事なのではと思います。好奇心にも近いかもしれませんね。


また、アインシュタインの「名言」にも通じるところがあります。

Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school.
「教養*2とは、学校で習ったことを全て忘れてもなお残っているところのものである」(訳:筆者)

http://www.goodreads.com/quotes/5803-education-is-what-remains-after-one-has-forgotten-what-one

太宰の「黒田先生」の言葉を借りれば、「残っているところのもの」とは、勉強の訓練を通して「カルチベート」されたあとに残る「一つかみの砂金」です。このような「砂金」を得た人は「心を広く持つ」つまり「愛するという事を知る」ようになるのでしょう。


そういえば、村上春樹は読者からの「村上さんを動かす原動力は?」という質問に対し、以下のように返事をしていました。

僕を動かす原動力は、やはり好奇心であると思います。知的な好奇心、フィジカルな好奇心、少しでも意識を広げていきたいという思い。

村上さんを動かす原動力は? - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

この「意識を広げていきたい」というのにもまた、「心を広く持つ」ことと通じるものがあるのではないでしょうか。

でも、知識の習得が不要な訳ではない

知識が全てではないとはいえ、教養があると思われる人の知識量が多いのは事実です。
日本人初のノーベル賞を受賞した湯川秀樹も『目に見えないもの』で以下のように書いていますが、「カルチベート」されて「砂金」を得るに至る過程には知識の修得が伴うのです。
「学校で習ったことを全て忘れても残っている」ものが教養であるにしても、そのような教養を身につけた後で本当に全て忘れることは考えにくいですもんね。

…ところで教養という言葉も、やはり何か定まった対象に関する知識の修得を意味しているではあろうが、その対象が何であるかはむしろ従であって、知識の修得によって、個々の知識以外に何かよきものを得る、自分自身の中によき変化をもたらし得るというところに主眼点があるのであろう。(p115)

『目に見えないもの』 湯川秀樹

「よきもの」・「よき変化」というのは、おそらく黒田先生のいう「砂金」と同じものでしょう。

知るとは、自分が変わること??

湯川秀樹からの引用に「変化」という言葉が使われていますが、この言葉を聞いて養老孟史の著書『養老孟史特別講義 手入れという思想』の一節が思い浮かびます。

・一般に知ることというのは知識を増やすことと考えられています。しかしもちろんそうではありません。私はよく学生に、自分が癌の告知をされたときのことを考えてみなさいといいます。

あと半年ということを宣告されてそれを納得した瞬間から、自分が変わります。ですから、知ることというのは、実は自分が変わることだと私は思うわけです。(p116-117)
・自分が変わるとはどういうことかと言いますと、それ以前の自分が部分的にせよ死んで生まれ変わっているということです。しょっちゅう死んでは生まれ変わっているのだから、朝そういう体験をして、夜になって本当に死んだとしても、別に驚くにはあたらないだろうというのが、有名な「朝に道聞かば夕に死すとも可なり」の意味ではないかと、私なりの解釈でそう思っています。(p118)

『養老孟史特別講義 手入れという思想』 養老孟史

知ることは知識を増やすことではなく、自分が変わることだとのこと。癌を知ることによる変化は少し特殊な例ですが、勉強によって新しいことを「知る」というのは自分を変えていくことであり、その変化の積み重ねの結果こそが黒田先生の「砂金」であり、アインシュタインの「残っているところのもの」であり、湯川秀樹の「よきもの」「よき変化」なのではないでしょうか。

おわりに

というわけで勉強します。


↓参考にした本。どれもおすすめです。

パンドラの匣 (新潮文庫)

パンドラの匣 (新潮文庫)

目に見えないもの (講談社学術文庫)

目に見えないもの (講談社学術文庫)

養老孟司特別講義 手入れという思想 (新潮文庫)

養老孟司特別講義 手入れという思想 (新潮文庫)

*1:余談ですがカープの黒田投手もかっこいいですね。

*2:Educationを教養と訳すか?という感じですが、この場合は教養と訳されることが多いようです。