roombaの日記

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ざまあ見ろ、旅に出てやったぜ

突然ですが、都会に飽きたので一人旅に出ました。

時間だけはある暇人なので、国内旅行をする際は基本的に青春18きっぷを使うことにしています。おしりが圧迫されますが、移り変わる景色を眺めながら読書をするのもなかなか良いものなのです。


で、今回も鈍行で東京を脱出したのですが、東京から出る度になんだか「ざまあ見ろ」という気持ちになるのです。別に誰かに恨みがあるわけでもないし、どこがどう「ざまあ見ろ」なのか全くわからないけれど、とにかくせいせいするわけです。この傾向は、どうやら電車の一人旅のときに強くあらわれるように思われます。


そんなことを旅ごとに感じていたのですが、村上春樹の『辺境・近境』という旅行記にも似たような気持ちが書かれていることを最近になって知りました。無人島に来た村上春樹は、以下のような気分になります。

どうだ、ざまあ見ろと思う。誰に向かってそう思っているのかは僕にも正確にはわからないけれど、なんとなくざまあ見ろ的な不敵な気分になってしまうのだ。こういうのもあるいは無人島の効用であるのかもしれない。


『辺境・近境』 村上春樹

辺境・近境 (新潮文庫)

辺境・近境 (新潮文庫)


この気分、いったい何なのでしょうね?

話は変わりますが(実は変わっていないのですが)、移動中の電車ではトーマス・マンの『魔の山』の下巻を読んでいました。つい最近に上巻を読み終わったところなのですが、上巻の冒頭には旅に関する以下のような文がありました。

旅にでて二日もすると、人間—まだ生活にあまりしっかりと根をおろしていない青年はなおさらのことだが—は、日常生活、すなわち義務とか利害とか心配とか見込みとか、自分がそういう名前で呼んでいたいっさいのものから遠ざかってしまう。それも、駅へいく馬車のなかで考えていた以上に遠ざかってしまうのである。ふつうには時間だけが持っていると考えられている力を、われわれ人間とその故郷との間に旋回し疾走しながら拡がっていく空間が示すようになる。つまり、空間も時々刻々に心的変化を生みだすのだ。そしてその変化は、時間によって生ずる変化によく似てはいるが、ある意味ではそれ以上のものなのである。時間と同じように、空間も忘れさせる力を持っている。しかし空間のそれは、人間をさまざまな関係から解き放って、自由な自然のままの状態へ移しかえるというやり方である。—実際、空間は、固陋な俗人をすら、瞬時に放浪者のようにしてしまう。時は忘却の水だといわれるが、旅の空気もそうした一種の飲物であり、時の流れほど徹底的ではないにしても、それだけにいっそう効きめは速い。


魔の山トーマス・マン

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

これ、「ざまあ見ろ」現象の1つの説明になっているのではないでしょうか。

魔の山』の言葉を借用しながら述べてみます。

家を出発して移動(空間的移動)することによって時々刻々と生み出される「心的変化」は、「人間をさまざまな関係から解き放って、自由な自然のままの状態へ移しかえる」ことにより、「日常生活、すなわち義務とか利害とか心配とか見込みとか」を忘れさせてくれるのです。私が「ざまあ見ろ」と思うのは、そのような忘却作用と自由の獲得に由来するのではないでしょうか。

すると、「ざまあ見ろ」という気分は自分を束縛している日常生活に向けられたものかもしれませんね。「この日常生活め、追えるもんなら追ってみな」みたいな。なんとなく分かったような、分からないような…

☆☆☆
追記(2015/3/16)

最近なんとなくお土産を買うのが好きでない(別にケチりたいわけではなく)のですが、その原因は帰宅後の日常が旅に侵入してくる感じに有るのではないか、と思い始めました。
☆☆☆

………

ちなみに、『魔の山』はとても面白いです。後日また感想的なものを書くかもしれません。

あと、村上春樹の文を知った経緯はこちら↓

村上春樹への再挑戦と、相手の人柄に触れることに関する話 - roombaの日記