roombaの日記

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村上春樹への再挑戦と、相手の人柄に触れることに関する話

村上春樹への偏見がなくなった

村上春樹の本は1冊だけ読んだことがありました。その唯一の本はなぜか『アフターダーク』で、中高生ぐらいのときだったでしょうか。
自分の読解力の問題もあるかもしれませんが、その時の感想は「は?」ぐらいのもので、それ以来ずっと(といっても5年程度ですが)彼の作品を手に取ることはありませんでした。だいたい、他の作品も分かるような分からないようなオシャンティーな言い回しで埋め尽くされているらしい(伝聞)し、どうせちょっとアレな人たちがスタバでドヤ顔しながら読むんだろ、おめでてーな、と勝手に偏見を抱いていた次第です。



そんなイメージが、2つのきっかけによって崩れることになります。

1つは、ファンからのメールに答える「村上さんのところ」を目にしたこと。たまたま「はてなブックマーク」経由で見かけたのですが、時々ふざけつつも丁寧なことばで回答をする村上さんにある種の親近感を抱き、「村上春樹も人間なんだな」という当たり前のことを発見したような気持ちになったのでした。今でも更新が続いているので、ついつい暇なときに見てしまいます。

村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

そして2つ目のきっかけは、こちらの記事。

村上春樹の「好き」「嫌い」はどこで分かれるのか? に関する一考察 - (チェコ好き)の日記
「もしかすると村上春樹は面白いおじさんなのかもしれない」とうすうす勘付いていたところで、

小説の主人公のイメージから、「村上春樹ってやつは、どんなスカした野郎なんだ!」と想像している方は多いと思います。でもエッセイを読む限りだと、村上春樹は「気のいいおじさん」です。

という文章を読んでしまったため、ここでオススメされていた『雨天炎天』を読むことにしました。するとこれが面白い。「なんだ、面白いじゃないか。それを早く知りたかった。」と勝手なことを思いながらあっという間に読んでしまい、下の記事で紹介されている『辺境・近境』にもすぐに手を出しました。後者の本の、無人島で虫をいじめるところや「うどん紀行」をさっきまでニヤニヤしながら読み返していたところです。『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』もすぐに読みたいですね。

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読む前に、これもチェック! - (チェコ好き)の日記
それぞれの内容は(チェコ好き)さんの記事に紹介されているのでそれでいいとして、ともかくも村上春樹へのアレルギーみたいなものが無くなりましたよ、ということを記しておきたかったのです。
まだエッセイしか読んでいませんが、じきに小説も読んでみようという気になりました。小説が気に入るとは限りませんが、少なくとも読み始めるまえの障壁みたいなものが取り払われた感じです。

相手を知る、ということ

以上のように、村上春樹への勝手なイメージは彼の人間味のようなものに触れることで崩れていったのですが、なんだか前にも似たようなことがあったな……と思いました。ここからは余談です。

大学入学当初、まずは基礎的な知識を身につけることが求められます。一般的な教養科目ではみんなが同じ授業を受けることになり、大きな教室でどこかの学部の知らない先生が講義をするのですが、それがまあ面白くないこと。もちろん例外はあるものの、大規模授業では先生と学生の物理的・心理的距離が遠くなり、授業中に寝てもあまり罪悪感を感じないようになります。

一方で、学科特有の専門的な授業が始まると受講生も限られてきて、他の授業・演習などを通して先生と学生が互いに顔見知りとなることが多くなります。そうして先生の人柄をある程度知ると、多少眠い授業でも面白さを見出せるようになったのです! これは新鮮な発見でした。「村上さんのところ」を目にしたときと同様、相手の人柄・性質に触れることで、こちらの一方的な思い込みや「どうせつまらないだろう」みたいな気持ちがなくなり、話が頭に入ってくるようになったのでした。


こんなことを考えていると、匿名のインターネット上で攻撃的になってしまう人も、結局は「相手の人柄に触れる」という機会がないからなのかな、と考えたり……。特定の人々全体の悪口なんて、そこに属する友人がいたら言えっこないですもんね。余談が過ぎましたが……とにかく誤解というのは顔が見えないことから生じるのではないかなとおもったのでした。

雨天炎天―ギリシャ・トルコ辺境紀行 (新潮文庫)

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辺境・近境 (新潮文庫)

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